下田の巻

1. 旅立ち

また1つ歳をとった。20代での1番の出来事は、姫と知り合えたことに尽きると思う。その姫と30代最初の日を過ごした。

待ち合わせ場所は新宿。前日晩の電話で暖かい格好をして来て欲しいと言われていたので、スキーにでも行くような格好をして姫を待った。体調は万全とはいいがたい。そのせいでクリスマスに姫に逢うことも叶わなかった。右目の奥で鈍い痛みが続く。屈むと眉の辺りも激しく痛んだ。待ち合わせの時間になる。改札を抜けて姫がやってきた。姫の笑顔が眩しい。今のこの時間を誰にも邪魔されたくない。

「雪を見に、北の方まで行けるだけ行こう」と会うなり姫は言った。姫が雪を見て喜ぶ姿が脳裏に浮かんだ。しかし、寒さで自分の体調が悪化して迷惑をかけることを恐れた私は、「寒いの苦手だから、寒い所へは行きたくないな」と呟く。姫の表情が曇る。気を悪くしているのがわかる。あてもなく、姫の手を引くようにして中央線に乗り込んだ。気まずい空気を抱えたまま、私たちは東京駅へと向かった。窓の外では雨が降っていた。

2. 白い闇を抜けて

東京駅で北へ向かう列車を探す。

「何処に行くの?」と姫の小さな声。

「長野の方でも行くか?」右目を押さえながら私は言った。

「北へは絶対行かない。ああまで言われて行きたくない」

姫の言葉が突き刺さる。胃がきりきりと痛む。

長い沈黙。激しくなる痛み。表には出せない。重たい空気が壁のように2人の間に横たわる。2人の間に言葉はない。

此処ではない何処かへ。北ではない何処かへ。ただそれだけで東海道線に乗った。

小田原行きの電車は、ゆっくりと動き出した。雨は上がっていた。右目は開かなくなった。たわいのない話をしながらも列車は西へと進んでいく。

大船で列車は特急を待つとアナウンスが流れる。2人はプラットホームに降りた。暫くすると、白い車体に緑のストライプが入った車体が滑り込んでくる。踊り子号だ。天気はかなりよくなってきた。2人は自由席に乗り込んだ。

検札が回ってきた。そこで、この踊り子号が伊豆急下田まで行くことを知った。2人とも下田へは行ったことがなかったので、そのまま終点まで向かうことにした。左手に海が、右手には山が見える。国府津を越えた辺りで再び天気が崩れ始めた。空は曇り白く見えた。

姫が海側のシートへと移る。姫は外を見ている。私はシートを倒すと目を瞑った。少し眠れば、その時だけは「痛み」を忘れることは出来るだろう。

次に起きたときには、下田の駅に着いていた。列車を降りると蛙の石像が目にとまった。下田は蛙で有名な町なのだろうか。土産物屋にも蛙のキャラクターを描いたのぼりが立っていた。

3. 下田潜入

ずっと寝ていたせいか、少し体調は回復した。右目も開くようになった。駅舎の外に出る。一面の青空。陽光が眩しい。それだけで気持ちも晴れやかになってくる。これも晴れ女の姫が一緒に居るからだろうか。私1人ではきっと雨降りのままだったに違いない。

何処に行こうか、思案していると、姫がパンフを指差している。加山雄三記念館と書かれてある。笑いながら、「行ってみる」と姫は悪戯っぽく聞いてくる。ここまで来といて、そりゃないぜと思い、「時間があったら」とかわしてみる。

天気の良さもあいまって、姫の機嫌もようやくよくなったようだ。駅のロータリーを抜け、商店街へと足を運ぶ。成人の日だからだろうか、晴れ着姿の女性を何人か見かけた。母親らしき人と歩いている人もいた。自分の成人式の時のことを思い出した。

駅の周りを一通り散策すると、商店街を通ったときに気になっていた店に入ることにした。店の名は「膳」という。名物びっくり天丼という言葉につられたのだ。メニューの品々を見るとどれも美味しそうだ。迷った末に、姫はびっくり海老天丼を、私は穴子天ソバを頼んだ。

料理を待っていると、姫がおもむろに鞄の中から誕生日プレゼントを取り出した。やけに厚みがある。受け取ると、早速包みを解いてみる。綺麗にラッピングされた箱から出てきたのは、私が愛用しているブランドの革ベルト、そしてグリーティング・カード。カードのコメントを見ていたら涙が出そうになった。姫が居ることをこんなにも嬉しく思ったことはなかった。大事にしなければ罰が当たると強く思う。

そうこうするうちに食事が来た。天麩羅は、器からはみ出すほど大きく下の蕎麦が見えないほどだ。天麩羅からは、揚げたてのいい香りがする。蕎麦を一口すする。こしがあって、噛んだときの食感がたまらない。天麩羅がまた美味い。ふらりと入った店ではあったが、至福の時を過ごすことが出来た。

下田は漁港があるので海産物を使った料理店が多いのはわかるが、何故かトンカツと一緒に店の看板としているところが多い。地元のファースト・フード店らしきところでは、カツバーガーなるものも売っていた。トンカツは下田の名物なのだろうか。誰か理由を知っている人がいたら教えてください。

4. 寝姿山へ

遅い昼食を追えると、私たちはロープウェイ乗り場へと向かった。姫が下田へ向かう電車の中で、ロープウェイで山に登れると聞いていたからだ。決して三波春夫のご当地ソングに釣られたわけではない(笑)。しかもその歌にまで蛙ネタが。トンカツといい蛙といい、謎は深まる。金田一少年やコナン君でも連れてきて推理してもらうか。いや、彼らの専門は殺人事件だから無理か(笑)。

観光地のせいか、お年を召されたご夫婦らしき方々を多数お見かけした。彼らのように、姫と美しく老いを迎えたいと思う。でも、姫は結婚は人生の墓場とか言っているので、悩みは深い(苦笑)。思わず髪が薄くなってしまうほどに(爆)。

ロープウェイから見える緑が美しい。車内に射し込む陽光に身も心も解されていく気がする。3分ほどで寝姿山の山頂に到着した。改札を抜けると土産物店だった。女性の胸胴部を模ったボトルに目に入ってきた。すぐに酒瓶に目が行ってしまうのは、酒飲みの性なのだろうか。それとも、そんなボトルに目が行ってしまうほど、近頃の欲求が不満しているからなのだろうか(核爆)。よく見ると、ボトルの下には試飲できますのポップが。

「試飲してみれば」と言った姫が笑っている。自分の疾しい心を見透かされたようで胸が痛む(笑)。

「伊豆の女」という吟醸酒を試飲してみる。日本酒独特の香りの中に漂うほのかな甘み。舌の上を流れていくような呑みごこち。次いで「寝姿山」を。こちらは、いかにも日本酒という感じだ。隣では、ワイン好きの姫が蜜柑ワインのドライを試飲している。こちらにも蜜柑の甘い香りが漂ってくる。私も試飲させてもらうことにする。甘い香りとは裏腹に重い呑み口。魚料理と意外と合うかもしれない。ドライでない方は、ドライを呑んだ後ではまるでオレンジジュースを飲んでいるような感じだった。さんざん呑んでおいて、売店を後にする。

眼下に下田港が見える。遊覧船がゆったりと湾内を進んでいく。その奥には、大島、利島が見える。空には雲一つない。順路を辿って、愛染明王堂に行く。奈良法隆寺の夢殿を2/3の大きさに再現したものだという。賽銭をあげ、2人で明王様に祈願をする。何を祈ったのかって。そんなことは言えません(笑)。愛染明王が何を司る仏様かって辺りで察してね(は〜と)。

お御籤を引くと、私は小吉であった。お御籤は現状を表すものだという。なかなか当たっているのがやけに悔しい。榊に結んで現状打破を誓う。姫の方は、どうも大吉だったようだ。見せてくれなかったので何ともいえないが。嬉しそうにしているところを見ていると、きっとそうに違いない。

下田には幕末の開港にまつわる地であることから史跡は多い。寝姿山にも江戸幕府の建てた砲台や見張り所の復元物があった。この位置からの眺めがまた素晴らしい。それ以上に、春のような暖かな陽射しに照らされた姫の仄かに紅さす頬がまた愛らしく、私の心を締めつけた(爆)。思わず抱きしめようとした私の腕をすり抜けるようにして、姫が軽やかに笑いながら駆け出す。追いかける。緑の間を抜け、展望台に戻ってきた。

2人で海を見つめていた。何を話すでもなくただ見ていた。私は「痛み」のことなどすっかり忘れていた。

5. 新しい絆

下田港の遊覧船に乗ろうとしたのだが、行き当たりばったりなのでどう行ったらいいかもわからず、駐車場にいた警備員さんに聞く。ロープウェイの駅から港まで徒歩では20分ほどかかるという。時計を見る。どう考えても間に合わない。山頂でゆっくりしすぎたせいだろうか。2人は顔を見合わせた。タクシーを飛ばしていくほどではないと思い次回の楽しみにとっておくことにした。

2人とも明日になれば仕事が待っている。余り遅くまではいられない。喫茶店での暫しの休息の後、私たちは、東京に戻ることにした。切符を買う。特急の時間が迫っていた。駆け足で改札を抜ける。券売のおじさんが、「2人行くから」と事前に怒鳴ってくれたおかげで滑り込みで乗ることが出来た。おじさんありがとう。

座席につくと、姫があくびをしている。たくさん歩いたし、朝も早かったから疲れたのであろう。暫くすると姫は静かな寝息を立て始めた。姫を抱き寄せ、肩に姫の頭が乗るようにした。2人の体をコートで被う。夜の帳が降り始めていた。夕陽が2人を包み込む。

温泉に入れなかったのは残念だが、また機会はあるだろう。2人とも仕事が忙しい上に、出不精で、しかも私が体調を崩しがちなので、なかなか2人で遠くに行くということはなかった。日帰りではあったが、久しぶりの遠出は、私の疲弊しきった心身を立て直すには充分な旅であった。企画してくれた姫には心から感謝しています。いつもありがとう。

こうして下田の旅は終わりを告げた。これを読んでいると、何だか惚気てばかりのような気がするが、それはきっと貴方の気のせいだ。いや、たぶん。おそらく。え、この後どうしたかって。そういう野暮なことは聞くもんじゃないよ(笑)。それに、そういうことを気にしていては大物にはなれないぞ(笑)。

退室