特別対談 かわぐちかいじ×福井晴敏
プラモとガンダムから始める戦争論
いま日本で、エンターテインメントとして戦争を描いて最も成功を収める漫画家と作家が初顔合わせ。
その作劇術からイメージの源泉、戦争に触れた個人体験、そして専守防衛から憲法改正まで、世代差を超えて熱く語る。
前略
ガンダムとプラモで知る戦争
福 井 いま、『ローレライ』で一緒に仕事をしていた樋口真嗣監督が『日本沈没』を撮っているんですが、彼もおれと同じで、読むと影響されるからと、『太陽の黙示録』を二、三巻読んだところでストップしていた。でも自分でコンテを描くと、ことごとくスタッフから「それは『太陽の黙示録』がやってますよ」と言われる(笑)。だから、『日本沈没』のスタッフルームには「かいじ禁止」とい貼り紙がしてあるんです(笑)。おれや樋口さんは同世代だからシンクロするのは分かるんですけど、かわぐちさんの世代でそういう絵運びやアイデアが出てくるのがすごいと思うです。だいたいおれの『ローレライ』でも中に乗っている人間ソナーの女の子人が死ぬと気絶するもんだから、人を殺さないようにと信管を抜いた魚雷でスクリューを狙い撃つ。どっかで読んだことあるぞ、これ……(笑)。他にいろいろな方法を考えたけど不自然で、結果的にかわぐちさんの後塵を拝することとなりました。
中略
福 井 かわぐちさんの世代の方と話すと、必ず『サブマリン707』の話が出てきますね。おれは読んだことがないんですが、もしかしたらおれたち世代におけるガンダム的なものかもしれない。
かわぐち 僕は分からないんですよ、ガンダムが。アニメーションとして、ものすごいインパクトがあったわけでしょう。いま30代ぐらいの人は、みんなガンダムを語りますよね。この前テレビで「日本のアニメベスト100」とかいう番組やっていて、「1位はサザエさんか」なんて言いながら子供と見てたら、1位はガンダムじゃないですか。で、子供に「ガンダムって分かる?」と聞いたら、「分かるよ。長く続いてるし、語る人も多い。僕はこれが1位だと思ってた」と言うんです。驚いて福井さんと同年代の編集者に聞いてみたら、いろいろと説明してくれました。
福 井 小学校の高学年だったんですが、夕方家に帰るとテレビでなんか変なものやっている。ロボットアニメとかそういうものじゃなくて、何か暗くて変なものというのが本最初のおれのイメージで、そのまま引き継がれてファンになったんですが、いま思うと結局あれは戦争を描こうとしていたんじゃないかと、悪の帝国でもロボットプロレスでもなくて、戦争という、独立したりそれを阻んだりすることで生じるせめぎあいをきちんと描こうとしていた。だから暗いし、すごくリアルでした。
かわぐち やっぱりそうですか。編集者に取材した通りだ(笑)。
福 井 その後もあの作品が評価されたりいじられたりしていますけど、結局我々の世代って、戦争教育というものがスポンと何もない世代なんです。かわぐちさんの頃だと教科書を塗りつぶしたりとか。
かわぐち 少し後ですが、一応ありましたね。
福 井 それに戦争体験した親の存在そのものが、何かを語っていたということがあったと思いますが、おれたちはそれがない。せいぜい空襲でひどい目に遭ったということを、おばあちゃんからちょこっと聞くくらいで。8月15日近辺に必ずやる『ガラスのうさぎ』や『はだしのゲン』を見ても何一つ感情移入できない。戦争というものを考える土台が何もなかったんですよ。そういう世代にとって、ガンダムは戦争考えるきっかけなったんだと思う。
かわぐち たとえば戦争というシステムを描いているとか、被害者だけじゃない描写があるとか。
福 井 要するにそれまでは銃後の生活という面白くも何ともないものばかりを教えられて、戦争は悲惨だ、やっちゃいけないんだとだけ言われ、はいはい、分かりましたという状態だった。「いや、戦争というのは起きる時には起きるんだよ」とはっきり言われたのが、ガンダムが初めてだったんです。ガンダムは独立戦争の話なので、独立したい側の気持ちは見ていて分かる。でも、独立戦争だからって、いきなり攻めて来られたら、攻められた方はたまんねえよな。じゃ、おれはどっちに立って見ればいいんだと、たったそれだけのことが結構なインパクトでした。現実の戦争というのもおそらくこういうことなんだろうなって。我々の世代が初めて手に入れた感情移入できる戦争と言い方が一番ふさわしいと思います。
かわぐち 怖いとか嫌だとか、そういう感情だけじゃなくてね。
福 井 そうです。それに対して、人間はどうアプローチしていけばいいのかも含めてですね。でも、ガンダムが本当に巧妙だったのは続編なんです。戦後の話になるんですが、最初のエピソードで二大勢力が崩壊した後は、民族紛争とテロくることを15年前に描いている。それを見ていたから、例えば9.11テロが起きた時も、おれは「あ、これ知ってる」と感じましたからね。
かわぐち だから30代に、それほど支持されてるんだな。
福 井 だと思います。だから、団塊世代が、かつて戦車とかゼロ戦のプラモデルを作っていた代わりに、いま我々世代はガンダムのプラモデルを作っているという構造でしょうね。
かわぐち そうそう、僕らの時は、プラモデルだったんですよ。親の話を聞いてると、戦争って嫌なもんだな、いけないもんだと分かるんだけど、それがなぜ起こったのかは分からない。そこへプラモデルがパッと現れた時、おお、かっこいいなと感じてしまった。
福 井 それとこれとは話が違うと。
かわぐち 親たちが経験した空襲や食糧難や疎開には、プラモデルからつながっていかない。でも、プラモデルはかっこいいからおもちゃとして作っていく。どんどんリアルなものになる。すると今度は、戦争というものが逆の方向から見えてくるんですよ。おれたちの恐くてつらい体験に逆方向から近づいていって、最後はリンクするんだけれども、そこには戦争って意外にかっこいい、面白いという要素が入っちゃってるわけです。まあ、プラモデルを作らない仲間は、文部省の反戦教育に従ってそっち行っているんですが(笑)、僕らはそうは言ってもかっこいいんだし、ゼロ戦とハインケルの違いも分かるんだからと。要するに我々は戦争を日常として捉えようとし、反戦の仲間は非日常として捉えようとしていた。でも僕らの言い分としては、戦争は非日常ではなくて、日常から起こっていって地続きなんだと。地続きと捉えないと、反戦の力にもならないだろうという思いがありました。
福 井 プラモからそこまで行くんですね(笑)。そこにかわぐちかいじの原点があるんだ。
かわぐち だから戦争漫画を描く時も、反戦という視点ではないものも加えていかないと、それは片手落ちになってしまう。それはプラモをかっこいいと思った瞬間から考えていることです。
後略
『小説新潮』2005年12月号(59巻12号/739号) 158-169pp.(165-167pp.)